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くふうの話(4)
戦国の武将。羽柴秀吉(のちの太閤秀吉)は狩(かり)が大好きでした。ある夏の日、秀吉は大勢のお供を連れて狩に出かけましたが、炎天下での狩ですから秀吉もお供の連中も体は疲れきって、しかも喉(のど)はカラカラで、まるで半病人のようになってしまいました。
秀吉はどこか涼しい所で休憩をしたいものだと思っていると、ちょうど一軒の寺があります。
「たのむ。我々一同は体の疲れと喉の渇きで死にそうじゃ。しばらくの間、この寺で休憩をさせてもらいたい」とたのみますと、出てきたのは年齢十二・三歳の小坊主でした。 一同を風通しの良い本堂に入れてくれましたので秀吉は「喉が渇いてたまらぬので、茶を一杯いただきたい」と頼むと、やがてその小坊主がお茶を持ってきます。
見ると大きな茶碗に薄くてぬるいお茶がなみなみとついであります。
あまりにも喉が渇ききっていた秀吉は、そのお茶をまるで水でも飲むようにグーッと一息に飲み干して「ああ、うまかった。おかげで大分喉の渇きは治ったが、もう一杯くれぬか」と言うと二杯目を入れてきましたが、今度は中くらいの大きさの茶碗に適温の普通のお茶が入れてあります。
秀吉はそのお茶を半分はわずかに残った喉の渇きを治すために、後の半分はお茶そのものを味わいながら飲み干しました。
「おかげで喉の渇きは治ったが、もう少し休憩をさせてもらいたい。ついてはもう一杯お茶をたのむ」というと、三杯目に持ってきたのは小ぶりな高級茶碗に極上のお茶が入れてありました。
もう秀吉は喉は渇いておりませんから休憩の間、その極上のお茶をゆっくり味わいながら飲み、しかも高級茶碗の鑑賞まですることができました。
喉がカラカラの時には、水代わりですからぬるくて薄いお茶を大量に、渇きが少し治った時には普通のお茶を、完全に渇きが無くなった時には、秀吉の身分にふさわしい高級茶碗に極上茶を入れて持ってくるという、この小坊主の工夫に心を打たれた秀吉は、この少年を武士として取りたてて、自分の小姓に致しました。
のちに名将の一人となった石田三成の少年時代の工夫のエピソードです。
仕事をする上でも、あるいは日常生活の上でも、こういうちょっとした心使い、工夫というものが必要だという事がわかります。
四回にわたって、戦国武将の工夫の話をご覧下さり有難う御座いました。
皆様のご健闘ををお祈り致しております。
出身地:群馬県前橋市
現住所:東京都板橋区
芸歴:
昭和45年 2代目神田山陽に入門 前座名陽之介
昭和48年 二ツ目に昇進 神田小山陽と改名
昭和52年 真打に昇進
平成4年 3代目神田松鯉を襲名
出囃子:神田祭
受賞:
昭和52年放送演芸大賞ホープ賞受賞
昭和63年文化庁芸術祭賞受賞
著書:「善悪リーダー心得帖 - 神田松鯉ビジネス講談集」経営書院刊
http://www.rakugo-geikyo.or.jp/