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おもためコラム

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有職(ゆうそく)美容師という仕事

日本髪を想う気持ちと伝統美

美容師の仕事を始めておよそ60数年。髪を後ろに垂らして結う垂髪(すべらかし)や、芸舞妓さんが結う島田や勝山など日本伝統の髪形を結い上げる数少ない有職美容師として、今日も仕事を続けています。私がこの仕事に携わってきたことを振り返りながら日本髪を思う気持ちと伝統美というものを皆様に少しでもお伝えできたらと思います。

私は南登美子(本名:大林登美子)と申します。京都の祇園町近くに「ミナミ美容室」3代目を継いでおります。これまで、いろいろなこともありましたが、84歳を過ぎてこうして元気でいられるのも仕事のおかげです。京都の葵祭や時代祭のほか、伊勢神宮さんや全国の祭事に毎年呼んで頂けるのは、この仕事一筋に、努めてきたからだと思っています。この仕事に携わる中、平成6年に京都府知事より頂いた「あけぼの賞」受賞に際しまして“有職美容師”との名称を頂きました。

有職美容師とは古来の朝廷や公家、武家の行事や風俗・装束などの伝統を学び伝えることに携わる美容師のことであります。私の母である先代“南ちゑ”が「日本髪変遷の研究と結髪」を生涯の仕事として美容業に励んでまいりました。そのことが認められ黄綬褒章を授かった母の姿は、私にとっても大きな礎(いしずえ)となっています。母は大正天皇陛下ご即位(御大典(たいてん))のために、前に「お中」の髪型、「おとき下げ」「おすべらかし」、公家の髪型を上手につくるための稽古をしたが、それは大変であったと聞いています。その写真も残っており、当日、母は枢密院お奥様のお髪上げをさせて頂き大変緊張したと言っていたことを思い出します。公家、武家の風俗・装束様式については、きちんとした時代考証をもとに、その姿を再現できなければなりません。そこで、母らが中心となって故実(こじつ)研究会を発足させて勉強する場をつくりました。京都大学名誉教授であり風俗研究家としての故猪熊兼繁先生に教授して頂けるようにお願いにあがり、指導を仰ぐことができたことは、大きな発展となりました。そのような中、私にも勉強の成果を披露する機会を頂きました。地髪での公家髪型の結い上げから化粧、装束の着付けを任せて頂いたこともあり、時代背景と受け継いだ伝統の重みがその時代の日本文化となっていくことを感じる機会ともなりました。

さて、昭和31年5月15日の葵祭に女人列が加わりました。戦後、京都の町の発展のために平安時代を甦る行列とされることから大きな期待があちらこちらから寄せられることとなりました。その女人列は美容師が髪の結い上げから着付けを担当いたしますから猪熊兼重先生、人形師の伊藤久重先生、装束師六選会の各先生方とで、その髪型や化粧について決定していきました。総勢30名ほどの女人行列が誕生する運びとなりました。それが葵祭の最初です。参列の通知が京都御所事務局から届いたと親御さん達の喜び様は忘れることはできません。私は御苑内で“斎王代”の化粧・着付けをさせて頂き、大変光栄に思っておりました。時代祭も復活しました。江戸時代「和宮」「女官」、武家・町家の女人を地髪で結い上げさせて頂き、歴史の勉強もさせて頂きました。このように、今日まで葵祭や時代祭と伝統ある文化に携わってこられたのも、京都には遥か古(いにしえ)より人々が都に集い、京都御所をはじめ由緒ある神社仏閣があるからだと思います。有職美容師としてこの仕事は一人でできるものではありません。同じ美容師の先生方と弛(たゆ)まず勉強してこそ日本髪への敬愛と職業への自負となっていきます。一生懸命勉強して精進し、その道に長けるようにならないと、いろいろな質問や評論に答えることができません。私にとっては一生涯の勉強となっています。

伝統文化としての心意気

時代とともにいろいろな情報がインターネットで見られます。しかし、着物の色柄や風合い、醸し出す様相は実際に「ほんまもん」を見て感じ取ってほしいと思います。その「ほんまもん」をつくり出す職人さんも少なくなりました。着物も観光向きとなり、雰囲気を味わうレンタル衣装も多く増えました。それはそれで知ってもらう、楽しんでもらうという意味ではよいと思います。ただ、日本の伝統文化としての心意気、髪の毛一本までを大切にしていた時代の美への意識と身だしなみの心得が忘れ去られていくような気がして残念でなりません。悲喜交々(ひきこもごも)、長生きしたものだと自分を振り返っています。

少し、私が美容師になっていく過程の話をしたいと思います。私は昭和3年2月に誕生しました。8ヶ月で生まれ、寒い季節の中、両親はさぞかし育児に苦労したことと思います。祖母“ぢう”は初代の結髪師です。私は体が弱く3歳の時に両親から離れて祖母の家で育ててもらうこととなりました。祖母は、明治時代に花街・祇園に近いこの場所で美容室を開き、祇園の芸舞妓さんやお庄屋さんの奥さま方の丸髷(まるまげ)を結っていました。私がここへ来た昭和の初めは、祖母と父の姉にあたる伯母(私の養母であり先代の師匠でもある南ちゑ)の2人を中心に、5、6人のお弟子さんがいて、店は大変繁盛していました。預けられた当初は、「家に帰りたい」と泣いたこともあったようですが、物心ついたころにはすっかり祖母と伯母になじみ、いつしか伯母のことは母と思い、そう呼ぶようになっていました。私を娘として迎えてくれたのもこのころでした。母のそばにいたかったからか、私の遊び場は、いつも母たちの仕事場でした。一番のお気に入りは、和紙のはたき(塵はらい)を女性の髪に見立てて結う、髪結さんごっこです。祖母や母のしていることをしてみたかったのでしょうか。私の父は名のある画家として活躍していたと聞いています。画家であったことから舞妓さんや芸子さんが髪を結い上げたきれいな姿をスケッチしてもらおうと父の元にやってきたこともあったようです。学校を卒業してからは、家のお手伝いをしながら、お茶やお花、お針のおけいこにも通いました。お嫁に行くには、一通りのことを身に付けておくべきだと、祖母も母も思っていたようです。

終戦後、店を再開するとき「そろそろ本格的に仕事を見習いなさい」と言われ、家の手伝いを始めたのですが、最初の5年間は何をやっていたのやら。今思いだしても、ただバタバタと日々を過ごしていただけのように思います。そしてそのときから、母は母である以上に、師匠という存在になりました。甘えたいけれど、もう甘えられない人になったのです。礼儀作法もたいそう厳しく教えられました。例えば「お客さんがみえました。」と座っている伯母に向かって立ったまま告げると「座ってもう一度言いなさい。」と叱られました。お手伝いとは関係なく美容師は所作も美しくなければならないという伯母の思いであったと振り返ります。パーマなどの技術を身に付けるために美容学校にも通いました。半年後の国家試験にはあっさり受かってしまって結局そのあとは、学校にも通わずじまい。学校よりも、伯母や母のそばにいてお手伝いをすることが楽しかったのだと思います。日々、忙しい母のそばにいて、手伝い、見習う。次々と髪を結っていく母に、予め手入れをして、揃えておいた櫛やヘアピンなど道具を渡すのが私の役目。もし順番を間違えようものなら、「何を見てたんや」と母に厳しく叱られます。この仕事は、私には向いていないのだろうかと思ったこともあります。けれど、小さいころからなじみ、何の疑問も持たずについた仕事。ほかにしたいと思うことは何一つありませんでした。母を手伝い技術を磨き、気が付くと30年以上の月日が流れていました。

舞台は世界へ

驚かれると思いますが、私が初めて1人で日本髪を結ったのは、50代になってからのこと。当時病に臥せていた母が、おぶわれて仕事場に姿を見せ「上手に結えてる」と言ってくれたことは忘れられません。母に褒められたのはそれが最初で最後でした。そのことが大きな自信となり、この仕事を通しての日本伝統文化を世界に披露する機会を頂きました。

美容に関する世界大会がオランダで開催された時には交流アトラクションとして平安時代の結髪と装束の着付けを披露させて頂きました。また、平成6年、パリ・京都友情盟約締結40周年を記念し、初めて海を渡った時代祭風俗行列がパリの中心部カルーゼル凱旋門を出発し、ルーブル美術館に至る巡行に美容師として参加いたしました。奈良時代〜明治〜平成の結髪から装束の着付けによる時代祭行列の再現を異国で行った京都文化の誇りとも言えます。日本らしい華やかな巡行を、パリの皆さんも見にいらして喜んでくださり、ほっとしたものです。気持ちも張って少々疲れてもいたのでしょうか、装束や髪飾りなどを、ルーブル美術館に展示し終え床に座ったときに、足の小指を反対側に曲げてしまいました。「痛い」と思いましたが、我慢してホテルに帰りました。言葉が通じないと思うと億劫(おっくう)になり「帰るまでには痛みもおさまるだろう」と病院へも行かず、そのまま。テープで固定して過ごし、なんとか務め終えて帰国しました。ところが、家に帰ると、小指が、紫色に腫れ上がっているではありませんか。急いで病院へ行くと、なんと小指の骨が折れていました。パリにいるときはお役目大事という気持ちがあったからそれほど痛みも感じなかったのでしょう。

いつもそうですが、仕事を受けたら一生懸命やる。そして結局は、それが、自分の力になると信じています。ただ、今になって思うのは、長く働くためには、働き蜂みたいに働きっぱなしではいけないということ。休めるときは休んで、自分を癒すことも必要です。そうして若々しく生き生きとしていなければ仕事を任せては頂けません。もちろんうれしいこともたくさんあります。確かな技術で、思うように髪が結えたときの喜びは、ほんとうに大きい。84歳の私が、日々元気でいられるのは、その喜びを繰り返し感じられるからです。

まだまだ現役

昭和60年に、伊勢神宮祭事で池田厚子御祭主様の結髪、装束を担当させて頂いたときの晴れがましさは今も忘れられません。また、本年平成24年5月には、黒田清子御祭主様の結髪、装束を担当させて頂きました。これまで無事にお仕えさせて頂いてきたことを本当に感謝いたします。また、何代にもわたって葵祭の斎王代さんの結髪・装束の着付けを担当させて頂いていることも、私の生きがいの一つです。

有職美容師の仕事は、普通の美容師とは違って、日本の歴史上の髪型を、すべて頭に入れ、それを再現できなければいけません。私が時代祭や櫛祭で担当する江戸時代だけでも髪型は150種類。今は、そのスタイルをすべて写真にしたテキストもありますが、私の時代にはそんな便利なものはありません。自分の記憶と、母が残してくれた一部の雛型だけが頼りでした。若い方のなかには、弟子になりたいと言ってくださる方もいらっしゃいます。ありがたいことですが、この仕事は何十年という月日をかけなければ一人前にはなれない仕事です。嫌々ではなく、仕事を楽しまなければ続けられない。また、どこへいっても負けないためには、誰よりも勉強する必要もあります。私自身、まだまだ結い続けながらも、次の世代にこの仕事をつないでいく勉強会も開き、次第送りをしている今日この頃です。

南登美子(みなみとみこ)プロフィール
有職美容師。1928年京都生まれ。
本名は大林登美子
京都祇園に店を構えるミナミ美容室3代目代表取締役。日本髪の結髪のみならず各時代の装束にも精通している第一人者。その高い技術、見識から伊勢神宮祭主結髪着付、葵祭斎王代結髪着付、時代祭皇女和宮結髪着付などを拝命している。
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